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京都大学大学院法学研究科・曽我部真裕(憲法・情報法)のページです。

タトゥー彫師医師法違反事件最高裁決定についてのコメント


 タトゥー彫師医師法違反事件最高裁決定(最二小決2020年9月16日)について、メディア向けコメントを求められましたので、以下の通り作成しました(少しだけ表現を変更しています)。
 決定文はこちらで公開されています。また、弁護団の亀石倫子先生のコメントはこちら弁護団の一審での印象に残る冒頭陳述はこちら。意見書などで協力された刑法学の辰井聡子先生のコメントはこちら。同じく刑法学の高山佳奈子先生のコメントはこちら(記事後半です)。高裁判決はこちら。高裁判決に関する拙稿はこちら

 

 まずは増田さんのこれまでの頑張りと、弁護団の先生方のご尽力に心から敬意を表したいと思います。どうもおめでとうございます。
 これまで何件かの事件のお手伝いをしてきましたが、この事件にはとりわけ学ぶことが多く、印象深い事件でした。
 タトゥーを道徳に反するものと考える人も少なくなく、彫師という職業には偏見を持たれがちです。しかし、この事件で増田さんがこの仕事への情熱と誇りを繰り返し語り、規制の不当性を訴え続けるその姿は、職業というのものが個人の個性を発揮し全うする、かけがえのないものでありうることを示しました。「誰もが自分らしい生き方ができる社会を」というのが憲法の理念だと私は考えていますが、たとえ社会から胡散臭く見られようとも、それだけを理由に自分らしく生きる自由を止めることはできない、ということが増田さんや弁護団の訴えたかったことなのだろうと思い、深く感銘を受けました。
 日本社会には「誰もが自分らしい生き方ができる社会」という理念に反するような現実があちこちに残されています。こうした理念を実現するために、当事者が訴訟その他の方法で戦っていかなければならない状況があるわけですが、今回の事件はこうした人々に勇気を与えるものだと思います。
 最後に、今回の決定の内容については別途コメントしますが、ここでは1つだけ、決定の補足意見では、タトゥーに美術的価値や一定の信条・情念を象徴する意義を認める者などがおり、タトゥーをすること自体を否定的に捉える必要はないということが述べられています。これは、タトゥーへの社会の偏見に対する1つのメッセージとなるものだと思います。

 


 以下、判決内容についてコメントさせていただきます。最高裁決定は、高裁判決が「医行為」の限定的な定義を採用したことを正当とし、医療関連性のないタトゥー施術のような行為は「医行為」に該当しないとしました。その理由付けは、医師法の制度趣旨から導かれたもので、オーソドックスな法令解釈の手法に基づいたものとして、当然の判断です。
 タトゥーの文脈を離れても、「医行為」の概念はこれまで非常に曖昧で、恣意的とも言えるような運用がなされてきており、法治国家原理の観点から問題があったところですので、今回、一定の明確化がなされたのは一定の意義があったと思われます。ただ、「医行為」概念が曖昧であることによる混乱(AEDの使用が医行為ではないかと問題となったことなど)は医療関連性のある領域で生じており、また、今回の決定は、「医行為」に当たるかどうかは諸事情を考慮した上で社会通念に照らして判断すべきだとしているので、今回の決定が現実に及ぼす影響は限定的だと考えます。
 たとえば、今回の事件の中で引き合いに出されたアートメイクなどは、技術的にはタトゥーと同じであっても、社会通念を理由に引き続き「医行為」に当たるとするものだと推測されます。
 さて、今見たように、最高裁は、今回の問題を医師法の解釈によって解決し、憲法に対する言及はありませんでしたが、このことは個人的には予想されたことです。「医行為」の要件として医療関連性が必要だという解釈は、医師法の制度趣旨から自然に導けることで、憲法判断をするまでもなく無罪の結論が導けるからです。
 もっとも、最高裁決定の補足意見では、タトゥー施術行為に医師免許を要求すると、我が国において彫師がいなくなってしまい、タトゥー施術を受けることができなくなってしまうということへの懸念が示されています。タトゥーには美術的価値や一定の信条ないし情念を象徴する意義を認める者がおり、タトゥー施術が受けられなくなると、国民が享受しうる福利の最大化を妨げるものであると言われています。このような補足意見は、憲法との明示的な関連を極力薄めようとする意図は見えるものの、実質的には被告人の主張してきた憲法的な価値を考慮するものです。
 医師法の制度趣旨だけではなく、憲法的な価値を考慮することによって(また、場合によっては傷害罪が成立することに注意を促して)、今回の判断によって規制が全くない状態になってしまう不都合を正当化しようとしているものと見られます。